生きる力 〜 注60

公開: 2020年5月16日

更新: 2020年5月18日

注60. 第2次世界大戦参戦までの日本政府の方針

1931年、日本の陸軍は、中国大陸における日本の利権を維持することを目的として、中国東北部(満州を意味します)において、中国政府軍を敵として、戦闘行為を開始しました。これは、日露戦争の結果として日本が獲得した、南満州鉄道の運営権を守り、その沿線における満州族の人々への日本の支配権を守り、日本人が満州の領土内に入植する権利を守るためでした。当時、日本の政府は、日本の発展のためには、満州における経済発展が大切であると考えていたからです。

満州や中国における利権については、日本の政府だけでなく、アメリカ合衆国政府も、大きな関心を持っていました。その意味では、満州における利権争いは、中国政府、日本政府だけでなく、アメリカ合衆国政府や、共産党が支配していたソ連政府にも重大な関心がありました。満州での日本と中国の間の利権の争いは、アメリカ合衆国やソ連の政府の思惑(おもわく)も絡(から)んで、当初、日本の陸軍が思たようには進展せず、長期にわたる内乱状態が続きました。その間、親日的な態度を示していた、満州の指導者であった張作霖(ちょうさくりん)は、密かに米国政府と通じて、新たに満州と北京を結ぶ鉄道の建設に合意したりしたため、日本は窮地(きゅうち)に立たされました。南満州鉄道の運営が難しくなるかもしれなかったからです。

苦境に立たされた日本陸軍と日本政府は、満州地域だけでなく、中国全土に戦線を拡大して、中国政府軍を追いつめることにしました。しかし、香港などを領有していたイギリスや、中国への進出を狙っていたアメリカ合衆国政府は、日本軍が中国を支配することに反対し、中国政府軍に対して軍事的な支援を行うとともに、日本に対する外交的な干渉(かんしょう)を強めました。にもかかわらず、戦争開始直後の日本軍は、沿岸部の都市を制圧し、少しずつ中国内陸部へ侵攻し始めました。中国政府軍は、少しずつ中国内部へ引きこもり、米国やイギリスの支援を受けて、抵抗を続けました。さらに、ソ連の支援を受けた中国共産党も、各地の戦いで、成果を上げ始めました。

アメリカ合衆国政府も一度は賛成した、日中の講和条約に対して、中国政府を代表していた蒋介石(しょうかいせき)と、イギリス政府が強く反対し、日本政府の譲歩案が頓挫(とんざ)し、中国大陸における日本と中国との戦いは、継続される可能性が高くなっていました。その状況で、日本政府の中には、ドイツと軍事同盟を結び、アメリカ合衆国やイギリスとの全面戦争に移行して、局面を打開しようとする案が出てきました。ドイツ軍のヨーロッパ大陸における戦いが侵攻すれば、経済大国のアメリカ合衆国の国民も戦争に反対し、日本の中国大陸での利権は守れるかもしれないと、考えたからでした。

結果的に、中国での中国政府軍と日本陸軍との戦いは、日本軍への物資の補給を続けることが難しくなって、日本陸軍は、少しずつ苦境に立たされるようになりました。さらに、太平洋における米国との戦争は、圧倒的な戦力をもった米国軍に押され、日本軍は勝つ見込みのない戦争を続けることになりました。南太平洋の島々に米国の軍隊が上陸し、飛行場を建設して、日本への爆撃が始まると、日本の工場が爆撃されるようになり、兵器の生産も難しくなりました。ヨーロッパでは、ドイツの軍隊がソ連軍との戦いに破れ、イギリス軍やフランス軍と、米国軍との連合軍にも負けると、ドイツ軍は首都ベルリンも守れなくなって、降伏しました。日本が、この戦争から望ましい形で手を引くことはできなくなりました。

1943年頃から、日本政府の中心では、「米国との戦争を終わらせるための条件」が議論されていました。その議論では、もはや「中国東北部での日本の利権の維持」が問題ではなくなり、「日本の国体の維持」、すなわち「日本の国の天皇制を守る」ことだけが問題の中心になりました。これに対して、米国軍を中心とした連合国軍の対応は、「日本の天皇制は、維持させない」とする態度になっていました。それまでの天皇を中心とする日本社会の構造を変えないことは、日本の再軍備と、軍国化を招くと恐れたからでした。米国のフランクリン・ルーズベルト大統領は、最後まで、日本軍の「無条件降伏」にこだわったと伝えられています。この大統領の態度が、日本への「原子爆弾の投下」にも影響したと考えられています。

参考になる読み物